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q兄弟間での実家の相続問題:大阪府在住(男性)

母と父の命日ははっきりと覚えていませんし特に供養するということもありません。母が亡くなったのは拉致被害者が日本に戻ってきたと報じられた時でしたので今から17年前の10月に、父親はその5年後の7月に亡くなっていますが正確な日付はよく分かりません。

父は母の後を追うように逝ったと記憶していたのですが5年も永らえたとは今、振り返ってみますとちょっと意外な気持になります。母の後、父が亡くなり10数年経ちましたが未だ実家は処分できず誰も住んでいない家屋は痛みも激しく朽ち果てるばかりです。負動産という言葉が身に染みて分かります。父の死後、資産の共有者は子供である姉、長男の私、妹2人の4人に引き継がれました。

兄妹の中で姉が一番しっかりしており母と父の葬儀は姉が中心となり行いました。この姉が兄妹を取りまとめ処分を進めていたのですがそのさなか、姉も不慮の事故で亡くなってしまいました。

姉が生前取り寄せていた実家の登記簿謄本を確認したところ2番目の妹(以降妹2と称します)夫婦に1/2の権利があり姉と一番目の妹(以降妹1と称します)と私にはそれぞれ1/6の権利しかないことが分かりました。

妹2は結婚後、実家の近くに家を購入し住んでおりました。姉の葬儀の折に妹2に確認したところ、父と母の世話をすること、亡くなった後は墓を建て寺とのつきあいを大切にすること、法事もしっかり行うことなどを約束し親の近くに引っ越しした。その結果として共有権の半分も引き継いだとの事でした。

両親は妹2をかわいがっており孫の世話をしながら老後のめんどうをみてもらいたかったのでしょう。それと引き換えに相続を多くすることは理解できるところです。ただし妹1にとっては納得いくものではありませんでした。どうして私にはという気持ちも分からないではありません。仕切っていた姉も亡くなり、相談していた司法書士事務所や不動産会社のやりとりは不明で処分は棚上げとなりました。

一方、資産の共有者は姉の家族へと引き継がれ何をするにも全員の同意を取り付ける必要があり手続きが複雑となり現在に至っています。

 

当初より姉にまかさず長男である私が手をつけていればよかったのですが仕事にかこつけ面倒なことから目を背けていました。姉の死後、私が引継ぎ相続の手続きを進めなければならなかったのですが月日ばかりが経ち平成の終わりを迎えようとしています。なぜ私が消極的で相続を放置したままにしたのでしょうか。私の生い立ちからお話しないと理解してもらえないかもしれません。
私が2才の時、母は私を自分の姉夫婦に預けました。当時、オリンピックが日本で開催されることが決定し東京が沸き立っていたころでした。オリンピック景気にもかかわらず父は商売がうまくいっておらず資金繰りに奔走し母親は借金取りに怯える中、二つ違いの姉と乳飲み子の私を抱えていました。

そんな窮状を見かね祖母が手伝いに来ていたのですが二人の子供は食事もまともに与えられず腹を空かし、食卓は奪い合いという光景を目の当たりし祖母は哀れに思ったのでしょう。商売が立ちいくようになるまで私を預かるということで母の姉夫婦のところに連れ帰りました。姉夫婦には子供がおらず祖母は同居していましたので都合がよかったのです。

当初は長くても2~3年程度で戻すという約束でちょっと親戚の家に預けるという気軽なものでした。ところが翌年、妹が生まれさらに次の年には一番下の妹が次々と生まれてしまい事情はすっかり変わり両親は3児の子供を抱え私を呼び戻すどころかではなくなってしまいました。当然ですね。あいかわらず商売もうまくいっておらず貧乏人の子沢山とはよく言ったものです。

祖母の目算は見事にはずれました。父がこのエネルギーを少しでも借金返済に充ててくれたら私の人生ももう少し違ったものになっていたのですが。姉夫婦、私から見れば伯父と伯母ですが小学校に上がるころ本当の両親は東京にいると聞かされました。

伯父、伯母はいずれ戻すことを念頭に置きそんなことを言ったのでしょう。私は特に違和感ももたず育ての親になついていました。

私が東京の両親のところに戻ったのは18才の時でした。伯父の体調が悪く長く病床に臥せっていたため大学進学の費用を捻出できず、東京の両親が費用を出すという条件で戻ることとなりました。泣く泣く新幹線に乗り東京に向かった日を今でも覚えています。2才までの記憶はなく私にとって両親とは名ばかりで姉や妹らも他人のようです。血のつながった家族とはいえなかなか馴染むものではありません。父にとって私は唯一の男の子供ですので鍛え直すというかけっこう厳しく当たられました。親戚に預けたことを棚に上げどうしてこんなのに育ったのかという勢いです。妹達も兄に対する理想像があったのでしょう。そのギャップを埋めるのに苦労していたようです。

姉は就職したばかり慣れない仕事に帰りは遅くいつもへとへと、母は常に傍観者、探るような眼で私を見ていたのが印象に残っています。私を大学に入れるぐらいの余裕は出てきましたが2DKの住居に6人家族という中、ぎくしゃくとした家族ごっこの生活が続きました。私は授業とバイトに忙しくし重苦しい家に帰るのは寝るためにだけというものでした。20才になった時、継続できるちょうどいいバイトがあったので私は家を出て自活する道を選びました。両親も敢えて止めるようなこともしませんでした。

親公認の家出というところでしょうか。一人暮らしのアパートには家族のだれも訪ねてこず、もちろん私から実家に顔を出すこともなく疎遠になっていきました。成人式の日もバイトに忙しく式典に出ることもありませんでした。バイトに精を出したせいで大学を1年留年することになったことで状況は悪化の一途、それ以降、親と同居することはありませんでした。結局、親といっしょに過ごしたのは2才のころとあわせて4年ですが、物心ついてからは2年という事になります。

私が就職して間もないころようやく父にも運が向き、家を建てることになりました。残念ながら私の部屋は用意されておらず実家に立ち寄る理由もなくなりました。考えてみれば2年で親と子、兄妹の絆を確かめ深め家族をやり直すということはもともと無理な話です。できることなら関わりたくない、私抜きでやってもらいたい、相続に際して私が積極的でなくなったのもこのことが大きく影響していました。生みの親より育ての親という言葉が実感でき身に沁みます。振り返って実家が塩漬けの状態になった原因をまとめてみますとまず私が親と一緒に住んだのが実質2年であったこと、両親が妹達の扱いに温度差を設けたこと、しっかり者の姉が早逝し兄妹間を仕切る人間がなくなったことが挙げられると思います。

これらの要因にそれぞれの配偶者がそれぞれの思惑が入り事態をより一層複雑にしたのではないでしょうか。原因の大半は両親にあると責めるのは簡単ですが私も人の親となり我が子を人に託すということにどれだけの思いがあったか、そこにはそれなりの事情があったこと、自分が育てることができなかったことの負い目、母として過ごせなかった自信の無さからくる猜疑心というようなもろもろの気持ちが理解できるようになりました。とは言え両親とは語り合う事はできません。塩漬けになった実家のことを考える度に母の死後、父がくれぐれも言っていた兄妹仲良くという言葉が皮肉のように聞こえてなりません。

父の葬儀の後、寺から帰る道すがら突然、妹二人がつかみ合いの喧嘩を始めました。その時は原因がよく分かりませんが、近所の人が驚いて家から顔を出してきた表情を忘れることができませんでした。

父が亡くなった当時、私は転勤で九州に住んでおり、姉は関西方面に、すぐ下の妹は関東近県に住んでいました。妹2は実家の近くに住んでいましたので介護施設に入っていた父の世話や通院の付き添い、リハビリ施設への送り迎え、たまに自宅に帰ったときの食事の支度などかいがいしく世話を焼いていました。

父の死去の際は葬儀場の選定から葬儀に伴う手続きまでその妹の夫が一手に引き受けてくれました。その夫の名前を仮にAとしましょう。Aはちょうど会社を辞め仕事を探しているような状態でしたので時間もあり父の葬儀に関する作業を生き生きとしてやってくれたのを覚えております。考えてみれば仕事もなく時間を持て余していたところ、直接、血のつながらない義理の父親の葬儀でもあり、実家の半分が貰えるのであれば腰も軽くなるというものです。

父が生前Aのことで言っていたエピソードがあります。Aの仕事がなかなか決まらず就職をあきらめ自宅でパソコン教室を開くことになり教室開催のチラシをくばることになったのですが恥ずかしくて人がいない方、いない方に行きなかなかチラシが捌けなかったというものです。葬儀のおり、私は長男でしたので家族代表として立場上、参列した親戚、父にゆかりのあった人に対しご挨拶をしました。後で姉から聞いたところによりますと「遠く離れて住んでおり、一切、実家に顔を出すこともない人間が一人前の長男の顔をして挨拶をするというのは納得いかない。世話をしたのは我々妹夫婦なのにこんな時だけ偉そうにして出てくるのは迷惑だ」と言ったとか言わなかったとか、姉も余計な事を耳に入れてくれたものです。

それまでは特にこの夫Aに対しマイナスの感情は抱いていなかったのですがこの言葉を聞いて一挙に嫌悪感を持つようになりました。私の気持ちとしては何も親孝行はできなかった不肖の息子ですが、最後の別れでもあり言葉の一つも掛けないといけないという思いでした。縁の薄い親子関係でしたが最後ぐらいはきちんとしたい、けじめをつけたいという気持ちしかなかったのですが「長男面をするな」と言われ他人のあんたがそこまで言うかと鼻白んでしまいました。妹2の後ろにAが控えていると思うともういけません、会話する気になれませんでした。

Aの実家は裕福な自営業を営んでおり家の購入資金も実家から出してもらっており失業中も仕送りを受けるという恵まれた環境にありました。チラシも満足に配れない人間なのにと馬鹿にした気持ちと心のどこかにめぐまれた境遇を羨む気持ちもあり嫉妬していた感情がヒートアップしたかもしれません。

一方、妹同士の仲ですが、両親の温度差のある対応の結果、その関係は修復するに至る事はありませんでした。妹1が過去を思い返して考えてみると妹2はいつも親から可愛がられ私には優しい言葉を掛けられたことはあまりなかった。いっしょに住みたいという話もしてもらったことはなかったという話を聞きショックを受けました。確かに妹2は可愛く明るい性格ですぐ妹1はちょっと影のある複雑な性格で扱いづらいことはまちがいないのですが、そこまで私も気が付きませんでした。もっとも妹達と一緒に住んだ期間は2年と短く私の妹達に対する印象が正しいかどうか自信はありません。寺から実家に戻る時に妹2は妹1にこんなことを言ったそうです。「私達3人(妹2、A、娘)は両親に頼まれ実家の近くに家を建てました。互いに世話をしたりされたりの関係で苦労もそれなりにありました。でも世話をしたことでとても喜んでいる親を見ると嬉しくて引っ越してきてよかったと思っています。

父からは母が亡くなった後、実家に移って一緒に住んでほしい。お金も残すからお墓のこと、檀家としてお寺との付き合いのこと、法事をしっかりやるようにと頼まれました」と。すぐ妹1にとってなんであなただけがという気持ちになるのは自然の感情です。そんなことが喧嘩の原因となったようです。

以降、妹達は連絡を取り合うこともなく付き合いが途絶えることとなりました。後日、兄妹3人宛てに両親の形見は好きに処分してください。今後の話し合いはお断りしますという文書が届きました。さて姉のほうですが、夫と間に3人の子供を設けましたが夫婦中は冷え切っており離婚を考えていました。東京生まれの彼女は関西での生活が肌に合わず関西弁をしゃべることを拒否し標準語で通していました。子供もおのずと標準語と関西弁のバイリンガルとなりましたがいじめの対象となり苦労したようです。父の葬儀の時に姉はおいおい東京に戻りたい、夫の墓には入りたくないと漏らしていました。すでに子供も大きくなり離婚も視野に入れていたのでしょう。父が亡くなり相続の件でたびたび上京していたようで彼女にとってはいい息抜きになっていたようです。

すでに子育ても終わっており夫から自立するために介護ビジネスを立ち上げたのですが何分、経験のない素人が始めたものですからうまく回るわけがありません。商売で失敗した父の姿が重なったのかもしれません。心労もあったのでしょう。突然の訃報を受け取ることとなりました。実家の処分を積極的に進めていた姉が亡くなったことで話は振出しに戻りました。

兄妹間では存在の薄い私が姉に成り代わり会話を拒否した妹夫婦に話を付けることやすぐ下の妹の状況をフォローするにしても電話番号も知らずやりようがありませんでした。そもそも私も会社勤め、地方転勤が続いており上京しひざ詰めで話を進めるというわけにもいきません。一番下の妹2夫婦は夫Aの実家から仕送りが続き仕事をしなくても生活に困ることもなく実家を処分し現金化しなくても焦ることはありませんでした。亡くなった姉の夫である義理の兄も仕事をもっており特に我々の実家の処分に気に掛ける様子もありませんでした。結局、亡くなった姉が実家処分に一番熱心で彼女の心の支えになっていたのだと思います。

姉が亡くなったことにより実家の共有者は姉の夫とその3人の子供まで及び売るにしても、貸すにしても全員から同意を取り付けるにはさらに手間と時間がかかる事態となってきました。実家の所在する場所は東京都に隣接した県にあり都心まで出るのに電車で1時間30分程度かかるところでした。最寄りの駅から徒歩で10分程度、都心回帰が叫ばれる昨今、どれほどの売買代金になるのか塩漬けで時間がたてばたつ程、価値は下がっていくように思われます。

私にとっては何の思い出も思い入れもない場所ですが年々売却価格が下がっていくのに手をこまねいて見ているのは忸怩たる思いです。家自体は30年以上前に立てられたもので何の価値もありません。売却価格は土地代金のみで1千万円にも満たずむしろ解体費用、測量費用、仲介手数料などで足が出るぐらいです。本来ならば妹2夫婦が処分しそれを原資として両親の墓参りや檀家とてして寺との付き合いなどに充ててもらえれば私達は判子を押すだけでなんの問題もなかったのですが感情が入り乱れ、血のつながらない他人が入り乱れ事が複雑になってしまいました。まさか塩漬けという形で相続がこじれるとは思ってもみませんでした。

ここで実家を取り巻く共有者について整理してみます。姉の夫(義理の兄)、姉の子供3人、妹1、妹2とその夫A、私の8名です。義理の兄とは母の葬儀、父の葬儀、姉の葬儀や3回忌、7回忌で何度も顔を合わせており会話も交わしそれなりに人間関係もできています。義理の兄と妹1とは性格が合わずあまりうまくいっていないようです。私と妹1とは共闘関係にあり妹2夫婦に立ち向かうという図になります。姉の子供たちはそれぞれ独立していますが妹1のところとは行き来があり親しくしているようです。妹2夫婦は共有者の中では孤立している状態です。

 

昨年の暮れの頃です。突然、姉の夫である義理の兄から連絡がありました。義理の兄はすでにリタイアしており時間的には余裕のある生活をしています。この兄とは先に述べましたとおり人間関係もできており兄が仕切る来年の姉の13回忌にも出席する予定です。兄の自宅に実家近くの不動産会社からDMが届きました。内容は住宅の売却についての案内でした。

これを機会に実家の売却に向け動きたいが兄が話をまとめる事で了解してくれるかという事で、DMは姉が生前、コンタクトしていた不動産会社のうちの1社から送られてきたものでした。兄もそれなりの齢になり兄が亡くなったら共有権もさらに複雑となり売却も困難になる。ついては兄の眼の黒いうちになんとかしたい。売却は姉の意志と思っている。売却を依頼する不動産会社の選定をまかせてくれないかという内容でした。

私を含め兄妹のだれも火中の栗を拾おうとはしませんでした。私としては一も二もなく賛成しました。実家の売却はすでにあきらめていましたので少しでも現金化されるのであれば反対する理由はなにもありません。その場で兄に一任することを承諾しました。年が明け1月のことです。兄より進捗を知らせる連絡がありました。1月の下旬に実家の近くの不動産会社を訪問する。買取か売り出しのどちらかにしたい。買取りの場合は地元業者に、売り出しの場合は販売力のある大手不動産業者にしたいと思っている。併せて妹2の自宅にも立ち寄り売却に向け承諾をもらうようにするというものでした。

絶縁を宣言した妹2とのコンタクトには気の重たいものがありましたが血のつながっていない義理の兄にとってはそれほどハードルが高いようなことはないようでした。兄の言葉を聞いて安堵したものです。買取りの場合、即決になることが多いのですがその価格は売り出しの半分ぐらいの価格にしかならず、売り出しの場合は時間がかかるが買取りより高い金額で売却できるとの事でした。

その後すぐに兄から妹2の自宅に行く前に実家の登記を調べたところ共有者の名前からAの名前が消え共有権が妹2に移転しているとの連絡がありました。確かAは60代半ばで元気にしていると思っていたのですが兄が妹2に会って確認したところによると昨年、心不全により亡くなっていることが判明しました。正業に就くこともなく自宅にこもりがちで酒の量が増え不健康な生活を送っていたようです。

めんどうな人間とは思っていましたが亡くなってみると、妹2は兄妹とも疎遠になり夫にも先立たれ実の兄としてなにもしてやれないことが不憫に思いました。毎年の実家の固定資産税は妹2のとこで支払っていたようです。本意ではありませんがAの死去により共有者が一人減ったことになります。結果、共有者は兄とその子供に1/6、妹1に1/6、妹2に1/2、私が1/6という比率となりました。その後、兄より某大手の不動産会社に店頭での売却を依頼した。近々、兄を媒介契約の代理人となることを了承するための委任状が当方宛てに送付されるので捺印の上、印鑑証明書とともに不動産会社に返信するようにとの要請が入りました。

ここまでは順調に推移し不動産会社より売却の連絡を待つだけと安心していたのですが、世の中そうは甘くありません。依頼した不動産会社より兄に連絡があり実家の下には遺跡があることが判明した。遺跡調査のため家屋を解体し役所にて調査してもらう必要がある。この調査をしないと売却はできないというなんとも理解しがたいものでした。

ネットで調べたところ実家が所在する近くには歴史民俗博物館があり縄文時代の遺跡も多く出土されている地域であることが分かりました。家を建てた当時は遺跡に対する役所の認識も浅くノーチェックで家屋を建築することができたようです。いやはや両親もえらいところに家を建てたものです。感心するやら呆れるやら、兄と一緒に笑ってしまいました。栄えある遺跡の上に所在することはありがたいのですが家を解体しないとなんとも事は進みません。遺跡があることで京都やイタリアのように由緒ある都市としての風格というか付加価値が付けばいいのですが、私の実家の遺跡は残念ですが阻害要因以外の何者でもありません。埃っぽい土が舞い日差しのきつい息苦しくなるような荒れた風景が目に浮かびます。実家の解体費用は共有者側の持ち出しとなります。その後に役所が遺跡調査を行い完了後、埋め戻し売却の運びとなります。遺跡調査を拒否することもできるそうですがそうなると売却は不可となるそうです。我々の選択は子孫に負の財産を残すことが目的ではありません。

兄には遺跡調査を受け入れること、その前段として家屋の解体費用は負担することでOKとの連絡を入れました。現在は家屋解体、遺跡調査の結果待ちという状況です。不動産業者との連絡は当方からe-MAILで質問しても電話で回答が返ってくるという繰り返しです。どうも先方は言質を取られないようエビデンスを残さいようにしているのではないかと勘ぐってしまいます。B2Cのビジネスではなにかと個人がおろそかにされた対等の立場で話を進めるのは難しいのかもしれません。

考えてみれば父の死後12年を経過しておりいまだ売却できずという事になります。結局、平成の時代には処分ができず令和の時代にようやく完了する事になりそうです。姉が取りまとめていた時と義理の兄が行動を起こした時を比べてみると血のつながっていない利害関係のない人間、もしくは薄い人間が音頭を取って進めるほうが比較的に話もまとまりやすいように感じました。あくまでも比較的でありこれは絶対ではありません。兄と私はうまくコミュニケーションが取れているのですが兄と妹1の関係は微妙で直接の会話はなく兄の子供を介在してやりとりをしています。兄が売却の取りまとめをしたいと言った時も妹1には直接話しておらず兄の子供経由で会話していたためちょっとした行き違いがありました。妹1はせっかく売るのだから高く売れる店頭販売もいいねと言ったつもりが兄には店頭販売でないと売らないと言っていると伝わりそんな勝手なことを言うのであれば俺は取りまとめから降りる、ずっとなにもせず放置していたくせに話が具体的になったら好きなことを言い出すのはあまりにも身勝手だ、お前ら兄妹で好きなようにやれと怒っていました。

こんなこと直接言ったら喧嘩になるのは明らかです。その時は私が中に入り事なきを得たのですがなかなか意志の疎通は難しいものだと感じました。事ほど左様に相続に関し肉親が行うと感情的になり過去の経緯を持ち出したり理屈に合わない言を弄したりと円滑に事は進まないようです。そこには金額の多寡ではなく故人の愛情の奪い合いというか意地の張り合いというか感情のせめぎあいの場所になってしまったようです。相続はビジネスライクに行うのがよいのかもしれません。

それにしても父が言っていた兄妹仲良くとは似ても似つかない事態となってしまいましたが、実家を処分することで兄妹の縁も完全に切れてしまうかもしれません。これで最後かなという気もしており複雑な心境です。そう言えば父も男4兄弟で育ち祖父から遺産を相続する際、色々ともめたようなことを聞いた記憶がありますが今となっては確認する術もありません。平成の終わりを間近にし、美田は残さずという言葉をしみじみとかみしめている今日この頃です。

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